趣意書
シンポジウム
ユーラシア世界における周縁と秩序
昨年は「「近代化」の意味を考える―アジアとヨーロッパの錯綜―」と題するシンポジウムが開催され、活発な議論が展開された。そこで本年は、対象時期を8・9世紀まで一挙にさかのぼり、日本史・西洋史・東洋史の3分野から報告者を出していただき、昨年と同様、活発な議論が交わされるシンポジウムになることをめざしている。
さて、国家の誕生は必然的に「中心」と「周縁」の成立を伴うが、それは政権の所在地と国境付近の領域に相当する。また、多数の国家が誕生したならば、一つの巨大国家と多数の周辺国家の関係がそれに相当する。さらに、地球規模で巨視的にとらえた場合には、先に中心として理解した巨大国家でさえも、周縁となることがある。つまり、中心と周縁は、視点の違いによって大きく変化する存在と言える。
そして一般的には、儀礼を含む制度や文化が、中心から周縁に伝播すると考えられており、それ自体間違いではない。しかしながら、それはすべての場合に当てはまるものではなく、周縁同士が影響を及ぼし合ったり、なかには周縁を越えた地域から影響を受けたり、その関係は多様である。
また、複数の国家が存在した場合、周縁を共有することもある。
たとえば14・15世紀の東アジアでは、日本と高麗・朝鮮王朝双方の周縁(辺境)にあたる壱岐・対馬・済州島など国境地帯が、それぞれ都の文化とは異なるものの、「倭語」を話し、「倭服」を着用するなど共通の文化を持つ「境界の人」(マージナルマン)が活動する場であり、それが当該期における倭寇(前期倭寇)の実態を考える際に有効であることが、村井章介氏らによって指摘されている。これは周縁同士の重なりと、そうした地域にも歴史を動かす大きな力が存在していたことを示すものである。
そこで今回は、8・9世紀のユーラシア大陸(世界)の東西両端3ヶ所(東アジア・ヨーロッパ・西アジア)に存在した巨大国家(唐王朝およびイスラム帝国アッバース朝)が作り出す秩序を対象とし、その中心と周縁について、国際関係(秩序)の視点から深く検討し、通説の再検討をおこないたい。
すなわち、ほぼ同じ時期に、ユーラシア世界各地に存在した巨大国家に見られた中心の実態と、中心・周縁や周縁同士の関係性と、中心そのものの性格変化などについて、政治・宗教・文化などの面から分析を試みたい。
以下、3報告の概要を順に紹介しよう。
まず日本史から、渡邊誠氏(広島大学)が、「東アジアのなかの日本律令国家「唐風化」再考」と題する報告を行う。
古代日本の律令国家体制は、唐を中心とする国際的な政治秩序の周縁にあって、まさしくその国家体制を受容して成立した。そうした国際秩序のもとでは、唐の文化こそが規範的価値をもったが、日本にかぎっていえば、国家儀礼の場で唐の礼制とは異なる「古礼」が残存したし、記紀神話イデオロギーも依然として大きな役割を果たした。それら日本固有の諸要素が払拭されるのは、じつは、いわゆる国風文化成立直前の平安前期(九世紀)の「唐風化」のさなかであった。
一般に「唐風化」は唐の政制・文化に対する理解の深化とみなされているが、渡邊氏は、そうした中心と周縁との関係を前提とする一方向的な文化受容という伝統的な理解に疑義を呈する。ここではむしろ、日本と新羅・渤海との、いわば周縁と周縁との国際関係に注目することによって、古礼とその「唐風化」という文化現象の政治的意味を問い直そうとするのである。
ついで西洋史からは、津田拓郎氏(北海道教育大学)が、「八・九世紀西ユーラシア世界におけるカロリング朝フランク王国」と題する報告を行う。
フランク王国、わけても一般に「大帝」と称せられる国王カール統治下のフランク王国は、内外問わず圧倒的な政治的・軍事的プレゼンスを有する、文字どおり「帝国」的な中心とみなされてきた。そうした政治的かつ空間的な中心性を前提とする歴史叙述は、世界に冠たるヨーロッパの祖形ないしは源流というように時間的にも増幅され、いまなお再生産されてやむことがない。
津田氏は、こうした現状を、グローバル・ヒストリーが叫ばれる昨今にあって、ヨーロッパ初期中世史が依然として西欧中心主義的な歴史観を脱していないことのあかしとして批判する。それゆえ、従来の歴史叙述のなかでフランク王国がいかに西欧中心主義的に語られてきたかをうきぼりにしたうえで、表題にあるとおり、西ユーラシア世界という巨視的なまなざしをつうじて、同王国の中心ならぬ周縁的な位置を明らかにしようとするのである。
最後に東洋史から、清水和裕氏(九州大学)が、「イスラーム帝国アッバース朝における「周縁」と改宗者」と題する報告を行う。
8世紀に成立したイスラーム帝国アッバース朝では、空間的な周縁とともに社会的な周縁という問題が大きな意味をもつ。というのも、非アラブならびに非イスラームという本来空間的な周縁が、帝国に組み込まれることで社会的な周縁に転じただけでなく、ときに改宗し、ときに従来の宗教を保持したまま、中央のバグダードに進出したからである。
なかでもカリフ宮廷では、そうした人びとこそが、その周縁性ゆえにカリフとの個人的な関係を構築し、行政、軍事、文化にわたるさまざまな面で顕著な活躍をみせた。清水氏は、そうした空間的かつ社会的な周縁がいかに帝国内で中心的な位置を占めるようになったかを、マワーリーの活動と、なかでもサービア教徒の文化面での進出に注目して具体的に明らかにするのである。
以上、各人の報告概要を述べたが、各報告の特色をあらためて整理すると次のようになろう。
すなわち、渡邊報告は、国風文化成立を前にしてむしろ「唐風化」が進行し、日本固有の古礼が失われるという事態に注目し、これを唐と日本との中心対周縁という一方向的な関係によってではなく、むしろ唐からみればいずれも周縁に相当する日本と新羅・渤海との国際関係によって説明しようとする。これは、中心からみればいずれも周縁ながら、周縁相互に水平的な関係を構築/破壊したり、ある周縁が他の周縁に対してある種の中心性を志向したりすることがあったことを示すものである。
津田報告は、王権の正統性を打ち立てるべく同時代に編纂されたさまざまな史料をつうじて、あるいは逆に、後代に世界の覇権をほしいままにするヨーロッパ像から遡及的にそれぞれ生み出されてきた、中心としてのフランク王国という理解を全面的に解体しようとする。それゆえ、同時代の近隣諸国家との関係でも、西欧中心主義的な歴史観にねざした従来の研究史に対しても、その周縁性を強調する試みである。この場合、中心がそれ自体、実態のうえでも理解のうえでも同時に周縁とみなされうることになる。
清水報告では、被征服民の空間的な周縁性がイスラーム帝国の成立により社会的なものに転ずると同時に、その周縁性ゆえに君主の特別な保護をえて、さまざまな分野で中心の一翼を担ってゆくさまが描き出される。内的な周縁性という意味では、先行する二報告とやや性格を異にするかにみえるが、それはむしろ、内的に周縁が中心でもありうる空間、すなわち「帝国」とはなにかというきわめて興味深い問いを喚起するのである。
以上の整理からもうかがわれるように、中心/周縁という二分法は絶対的ではなく、もとより相対的であると同時に可変的であり、反転すら可能である。問題はつねに、両者を分かつ境界がわたしたちのまなざしによってア・プリオリに措定され、絶対視されてしまうことから生ずる。その意味で、いずれも8・9世紀とほぼ同時代、空間的にはユーラシア世界の東西両端と、統一テーマが掲げる「周縁と秩序」を具体的かつ包括的に考えるにあたって、これ以上ない陣容が整えられたように思われる。
シンポジウム当日、活発な議論が展開されることをおおいに期待する。